
お盆が近づくと、台所の空気が少し変わる気がします。
暦の上ではとっくに立秋を過ぎているのに、外は夏の盛りそのもの。それでも朝晩の風に、ほんのわずか秋の予感が混じりはじめる。そういう季節のはざまに、大皿を出してくる家が日本中にあります。
帰省した子どもたち、久しぶりに顔を合わせる親族。食卓がいつもより少し広くなる日。大皿というのは、不思議なもので、同じ料理でも小鉢に取り分けて並べるより、ぐっと場の空気が柔らかくなります。「どうぞ」と言わなくても、手が自然に伸びる。その自然さが、場をつくるのだと思います。
私には子どもが四人います。それぞれ独立して、もう自分の台所を持っています。ときどき電話がかかってきます。料理の話をしたいのかな、と思って出ると、だいたい用件はひとつです。
「お母さん、卵焼きってどうやって作るんだっけ。」
最初は笑いました。卵焼きですか、と。でも聞いてみると、子どもたちの頭の中にある「卵焼き」の基準は、幼い頃から食べてきたあの味なのですね。甘さの加減、巻き方のかたさ、だしの量。そういうものが体に入っていて、自分で作ろうとすると、微妙にそこへ届かない。だから電話してくる。
この話を教室でしたら、生徒さんの一人がすぐに「うちもまったく同じです」とおっしゃいました。お子さんから同じような電話が来るのだそうです。習った料理がその家の定番になって、子どもが独立してもその味を基準にして生きている。そう聞いて、少し胸が温かくなりました。
料理というのは、学びとは、未来の自分への仕送りのようなものだと思っています。今日作ったものが、何年も先に誰かの「ちゃんとした味」になる。それを意識して台所に立っている人は、あまりいないかもしれません。でも確かに、そうなっている。
お盆の食卓には、そういう積み重ねが見えやすい形で出てきます。亡くなった方が好きだったもの、その家の人たちが「これがないとお盆じゃない」と思っているもの。大皿に盛られた料理を見ると、その家の時間が少しだけ透けて見える気がします。
大皿に盛るということ
大皿料理をきれいに見せるには、盛り方にほんの少しの意識が必要です。全部を均一に並べるより、高低をつける。色の濃いものと淡いものを隣り合わせにする。余白を怖がらない。
これはどこかで聞いたことがある話かもしれません。でも実際にやってみると、同じ料理でも受け取る印象がずいぶん変わります。人が食べ物を「おいしそう」と感じる前に、目が先に食べているわけです。
視覚が味覚に影響を与えるという話は、食の研究でもよく取り上げられます。「クロスモーダル知覚」という言葉があるのですが、平たく言えば、見た目・音・香り・手触りがすべて合わさって「おいしさ」になる、ということです。大皿を囲む食卓がにぎやかで楽しいのは、そういった意味でも理にかなっているのかもしれません。声や笑い声、箸の音、漂う香り。それが全部まとまって、料理をおいしくしている。
長く料理の仕事をしてきて、一人で食べる場よりも、誰かと囲む場のほうが料理は生きる、とつくづく思います。技術や素材はもちろん大切です。でも、テーブルを囲む人の気配が、最後の調味料になるのだと感じることが何度もありました。
お盆という時間は、生きている人間だけが集まる場ではありません。もういない人のことを思いながら、その人が好きだった料理を作る。仏壇に手を合わせてから、大皿を出してくる。そういう一連の動作の中に、食卓の持つ本当の意味が宿っているのだと思います。
卵焼きのレシピを電話で聞いてくる子どもたちのことを、私は誇らしいとか嬉しいとか、そういう言葉でうまく言えません。ただ、台所に立ち続けてきたことが、遠くまで届いているのだな、とひっそり感じるのです。
大皿を出してくるこの季節に、そんなことを思います。あなたの家の食卓にも、誰かに電話で聞きたくなるような味が、一つくらいあるのではないでしょうか。こうして誰かに手渡していけたら、それがいちばん嬉しいことです。学びの場を続けているのも、たぶんそのためです。
