
立秋が過ぎると、空の青さが少しだけ変わります。
夏の盛りの、あの白く灼けた青ではなく、どこかに奥行きが生まれたような青。暦の上ではもう秋なのに、体はまだ夏の真ん中にいる。この数日間のずれが、お盆という時間とよく似ているな、と毎年思います。
あの世とこの世の境が薄くなる。そういう言い方を昔からします。科学的に証明されるものではありませんが、それでも人は何百年も、この季節に帰ってくる人を迎えようとしてきた。その積み重ねそのものが、すでに何かを語っていると思うのです。
お盆の食卓は、少しだけ広くなります。
精進料理をお供えする家もあれば、その人の好物を並べる家もある。形は様々ですが、共通しているのは「いない人のために作る」という行為です。食べてもらえないとわかっていて、包丁を持つ。それがどういうことか、料理を長くやってきた今も、うまく言葉にできません。
ただ、作っている間だけは、その人のことを純粋に思えるような気がします。好きだったもの、苦手だったもの、よく食べていた季節のもの。そういうことを、まな板の前で静かに思い出す時間。これはある意味で、料理が持つ特別な力かもしれません。
心理学に「継続する絆」という考え方があります。大切な人を亡くしても、その人との関係は完全には終わらない。心の中で続いていく、という見方です。難しい言葉を使わなくても、お盆に手を合わせながら「あの人はこれが好きだったな」と思う瞬間が、まさにそれだと思います。食卓はそういう時間を、ごく自然に作ってくれる場所です。
余白のある食卓
お供えの料理には、余白があります。
盛り付けが少し控えめだったり、器が一つ多かったり。その余白が、いない人の居場所になっている。料理において「引く」ことの美しさは、日本料理の大切な感覚の一つですが、お盆の食卓はその極まった姿かもしれません。
精進料理が植物性の素材だけで作られるのは、仏教的な理由からですが、同時に「この世のもので作った、清いもの」という意味合いもあると私は感じています。だしは昆布だけを水に静かに浸けておく。肉も魚も使わない。制約の中で丁寧に作ることで、気持ちが整っていくような感覚があります。
料理とは、未来の誰かへの手紙のようなものだと思っています。食べてくれる人を思い浮かべながら作る、その向こう向きの時間が、料理を料理たらしめている。お盆の供え物は、その宛先がいない人であっても、同じことが言えるのではないでしょうか。
立秋の風は、夕方になると少しだけ涼しくなります。
その風の中で、台所に立つ。いない人のことを思いながら、何かを作る。食べてもらえなくても、作り終えたとき、不思議と気持ちが落ち着いているものです。料理は自分のためだけのものではない。教室に来てくださる方を見ていると、そう思います。
