
午前11時を過ぎると、台所の空気が変わります。
外はすでに白く焼けていて、風も止まっている。大暑のころの昼前というのは、一日のなかでいちばん時間が重くなる気がします。カレンダーには「大暑」と小さく書かれていますが、その二文字が表すのは暦の知識ではなく、じっとりとした皮膚の感覚のほうです。
夏休みが始まると、昼ごはんが毎日やってきます。当たり前のことなのに、いざそれが続くとなると、少し身構える方も多いのではないでしょうか。朝ごはんを片付けたと思えば、もう昼の準備。子どもたちはどこかそわそわしていて、「今日は何?」という声が台所に飛んでくる。
この問いかけ、私はけっこう好きです。
「今日は何?」は、お腹の声でもあるけれど、家族への話しかけでもある。何を食べるかを聞いているようで、じつはそこにいるあなたに声をかけたい、というサインでもある気がします。コミュニケーションというと大げさに聞こえますが、昼ごはんの支度をしながら交わす何気ない言葉は、案外そういうものを運んでいます。
夏の昼ごはんが「会話の場」になる理由
心理学に「共同注意」という言葉があります。二人が同じものを一緒に見たり、同じことに注意を向けたりすることで、言葉が生まれやすくなる、という考え方です。難しそうな響きですが、要するに「一緒に何かを見ていると、話しかけやすくなる」ということです。
台所はその条件が自然と揃っています。まな板の上のきゅうり、氷の入った麦茶、できあがった器。二人でそれを眺めながら過ごす数分間は、向き合って話すよりもずっと気楽です。夏の昼ごはんをつくる時間は、意図せずそういう場をつくってくれます。
とはいえ、毎日のことですから、手をかけすぎない日があっていい。そうめんを一つの方向にそろえて茹でる、薬味をいくつか小皿に並べる。それだけで、食卓はちゃんと昼ごはんの顔をします。昆布を朝のうちに水に浸けておけば、引いただしは夕方の汁ものにも使えます。一手間が二度働く、というのが夏の台所の知恵です。
大暑のあいだ、体は思った以上に水分と塩気を欲しています。これは体感として多くの方が知っているとおりで、薬味を豊富に揃えるのも、昔の人たちがそれをよく知っていたからでしょう。みょうが、大葉、おろし生姜。これだけ並ぶと、昼ごはんはぐっと夏らしくなります。
昼ごはんは義務ではなく、家族の時間が短く凝縮した場所です。毎日の宿題と感じるとき、そこには「ちゃんとしなければ」という気持ちが隠れているかもしれません。でも、子どもたちが「今日は何?」と聞いてくる声は、たぶん、それほど複雑なものを求めていない。
夏の昼ごはんというのは、昼ごはんとは名ばかりの、短い家族時間なのだと思います。
大暑は、一年でもっとも暑さが極まる節気とされています。その盛りのなかで台所に立つのは、確かに体力がいる。それでも、暑い昼に食卓を囲む家族の気配というのは、夏が終わってから、妙にはっきりと思い出されるものです。家の食卓が少し変わった、という声を教室でもよく聞きます。
