酸味が、夏の体をたすける

天日に干した梅干し

唾液が出る、という感覚を、少し意識したことはありますか。

酸味を感じる
唾液・胃液が出る
消化の準備が整う
疲労回復を助ける

梅干しを思い浮かべただけで、口の中がじわりと潤う。あれは脳が「酸っぱいもの」を予測して、反射的に唾液の分泌を促しているのだと考えられています。食べる前から体が動き出す、という現象です。

大暑に入ると、空気ごと押しつぶされるような暑さになります。暦の上では一年でもっとも気温が高くなる頃とされていますが、体感でいえば、暑さよりも疲れが先にくる時期かもしれません。食欲が落ち、台所に立つのがおっくうになる。そんな日が続きます。

このとき体の中で何が起きているかというと、消化器官の働きが全体的に鈍くなっています。暑さに対応するために血流が皮膚の表面に集まり、内臓への血流が相対的に減る。胃の動きが落ち、食べても消化しきれない感覚が残る。これが「夏の食欲不振」の一因とされています。

酸味は、ここに働きかけます。

酸っぱいものを口にすると、唾液だけでなく胃液の分泌も促されるとされています。胃が「受け取る準備」を整えるわけです。さらに、酢や梅に含まれるクエン酸は、エネルギーを作り出す体内の回路(クエン酸回路と呼ばれます)を助けるという研究があります。疲労の原因となる代謝産物を分解しやすくする、とも言われています。

難しい話のように聞こえるかもしれませんが、要は「酸っぱいものを食べると、体が動きやすくなる準備が整う」ということです。

日本料理と酸味の関係

長く料理の仕事をしてきて、あらためて感じるのは、日本料理が夏に酸味をよく使うということです。土佐酢、ポン酢、二杯酢、三杯酢。名前を並べると、酢を中心に味を組み立てる料理がいかに多いかがわかります。

冷やしたたたきに土佐酢をかける。薄切りにした夏野菜を二杯酢で和える。ただの「さっぱり感」のためだけではなく、食べる人の体を整えるという感覚が、おそらく調理する側にも昔からあったのだと思います。科学的な言葉は知らなくても、経験として知っていた。

修行時代に、先輩から「夏の一皿は、体を起こすように作れ」と言われたことがあります。食欲のない人に食べてもらうための一皿は、刺激ではなく、誘いでなければならない。酸味は、その誘いの役割を担います。

酸味という要素は、料理の中ではどこか脇役に置かれがちです。塩気や旨みに比べると、主張が控えめに映る。でも、体への働きかけという点では、むしろ夏にこそ主役に立てるべき味かもしれません。

梅干しを一粒、白いご飯の上に置く。昆布酢で締めた白身魚を薄く切る。酢を少し加えた出汁でゼリー寄せを作る。材料は変わらなくても、酸味の使い方を意識するだけで、一皿の役割が変わります。

夏の料理に何かが足りないと感じたとき、それは塩ではなく酸かもしれない、と私はよく考えます。酸味は、味を調えるためだけでなく、食べる人の体をそっとたすけるために置くものだ、という感覚です。

暑さに体が消耗しているこの時期、台所で酢を手に取る回数が、少し増えてもいいかもしれません。酸味は、夏の体への、静かな贈りもののようなものです。理屈が分かると手が変わります。教室でも、なぜそうなるかから入るようにしています。

この記事を書いた人

柿澤ひとし